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桂春団治 (3代目) : ミニ英和和英辞書
桂春団治 (3代目)[3だいめ かつら はるだんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい, かつら]
 (n) (abbr) knight (shogi)
: [はる]
  1. (n-adv,n-t) spring 
: [だん]
 【名詞】 1. body 2. group 3. party 4. company 5. troupe
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [め, もく]
 【名詞】 1. (1) item 2. division 3. class 4. (2) piece (in Go)

桂春団治 (3代目) : ウィキペディア日本語版
桂春団治 (3代目)[3だいめ かつら はるだんじ]

3代目桂 春団治(3だいめ かつら はるだんじ、1930年3月25日 - 2016年1月9日)は、落語家。本名:河合 一(かわい はじめ)。大阪府大阪市出身。旧字体を春團治。所属事務所松竹芸能に所属していた。上方落語協会会員(相談役、第3代会長)。出囃子は『野崎』。
== 来歴 ==
2代目桂春団治は実父、河本寿栄は義母。実母とは死別している。本人は三男であるが、長男と次男は幼くして亡くなっているため実母が名前に「一(はじめ)」と付けたとのこと。
浪華商業高等学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)卒業後、兵庫県宝塚市の自動車部品販売会社でサラリーマン生活を送る。1年で退職後、父である2代目春団治の九州での巡業に同行した際、博多で他の演者の急病により、仕方無く父の聞き覚えである落語「寄合酒」で初めて高座に上がることになったが、爆笑を得、その後本格的に噺家になることを決意した。そのためこのネタは記念すべきネタで、6代目笑福亭松鶴も初高座で演じたネタが同じ「寄合酒」であったと、のちに自叙伝などで語っている。最初の頃はまともな前座修行をしないまま初高座を終えてしまったため正座すらできなかった。そのためか立ち上ったらふら付くためみっともないので緞帳の幕を下ろしてもらって高座を下りていた。
入門当時、上方の落語家が10数名であったなか、有志で「さえずり会」を結成、上方落語の復興に尽力。のちに、同会メンバーでもあった6代目笑福亭松鶴3代目桂米朝、3代目桂小文枝(のちの5代目桂文枝)と並び、「上方落語の四天王」と呼ばれた。当時の上方の落語家としては珍しく、昭和30年代あたりから東京の寄席やホールに客演として登壇する等、早くから上方落語の関東への普及に務めた。
「経歴」節にもあるように1980年代以降、複数の病気を患い、なお、所属事務所のトピックスに掲載されたインタビューで、「4代目は誰に継がせるのか」といった主旨の問いかけに対し、「4代目春団治はこのボクや」と発言している。これは前述の経緯のほか、初代の前にもう1人春団治を名乗った人物が存在するため、この返答をしたものと思われる(ただし、本業が別にあったために代数には数えられていない)。
2006年9月15日、常設寄席「天満天神繁昌亭」のこけら落としを記念して、歴代の春団治が乗ったと伝えられる「赤い人力車」(詳細は初代春団治の項「エピソード」参照)の復元版に、桂三枝(現・6代桂文枝)が車引きを務める形で乗り天神橋筋商店街でパレードを行った。この企画を三枝が打診した際、「実はわしもいっぺん乗ってみたいと思とったんや」と答えたという。因みに1959年の春団治の襲名の時にも「赤い人力車」(初代春団治が使用されたとされる当時現物)を乗ってパレードを行う予定だったが保存状態が悪かったため実現には至らなかった。「四天王」の中で「繁昌亭」の高座に上がった唯一の人物でもある〔 〕。
晩年には上方落語界の最古参で、幕内では桂米朝を「米朝くん」、笑福亭松之助を「松ちゃん」と唯一言える噺家であった。
2013年5月ごろから体調を崩し、療養中であった。その前後には爪を痛めたり、転倒での肋骨のひびなどで高座から離れていたが2015年10月3日、出演予定であった堺市立東文化会館で行われる「桂春団治生誕85年記念 三代目桂春団治一門会」のトークコーナーも直前に欠席した。2015年3月に3代目桂米朝が死去した際には「僕にとっては『代書屋』『親子茶屋』を教えてもらい師匠のような存在。残された四天王も僕ひとりになり、寂しい思いでいっぱいです」というコメントを出した〔桂春団治、米朝さん死去にお悔やみ「寂しい思いでいっぱい」 - スポーツ報知2015年3月20日〕。
上記の米朝追悼のコメントにある通り「四天王」の最後の存命者であったが、米朝の死去から10か月後の2016年1月9日に心不全で他界した〔。。没後の1月26日に天満天神繁昌亭にて、6代目桂文枝を葬儀委員長として3代目春団治の上方落語協会葬が執り行われた〔桂春団治さん 大阪・繁昌亭でお別れの会 文枝「師匠のおかげ」 スポーツニッポン 2016年1月26日閲覧〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桂春団治 (3代目)」の詳細全文を読む




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